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zoom RSS 表現と犯罪の境界線

<<   作成日時 : 2009/02/12 23:17   >>

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少し前に爆笑問題の番組で、未成年犯罪について太田光が語っていた。

「誰でもいいから殺したかった」という最近の犯罪者は自己を表現するツールとして犯罪を犯す事を選んでいるが、それは全くオリジナリティに欠ける行為だと。

太田光は自分自身が「表現」の能力を持っているが故に、万人がそれを持ち合わせていると仮定して話をしているが、しかし、僕はそうは思わない。何故なら「表現」というものはもっと深遠であり、高貴な位置にある心の状態を指すと考えるからだ。

「誰でもいいから殺したかった」程度の自己管理能力と因果を図る知能しか持ち合わせていない彼らに「表現」は到底不可能である。

というかこれから述べる、僕の中での「表現」という言葉の持つ意味すら理解できまい。

ただ単に自分自身の境遇を呪い、不平不満を並べ立て、全てを他人のせいにして、捌け口をさがしただけの話。

しかし、表現も同じくして出所は不平不満からである。そして、表現方法はどうであれ「表現」は結局心の捌け口である事も同じだと思う。では、どこが違うのか、それはその不平不満の原因を他人の中に見つけるのではなく、自分自身の中に見つけるかどうかの違いなのでは無いだろうか?

結局ほとんどの人間は突出して優れた能力を最初から持ち合わせてなどいない、それがあるなら、「人間」という種自体が成り立たないはずだ。しかし、優れた人間がいるのは何故か、それは十分に他を寄せ付けない積み重ねがあったから。これだけの単純明快な話だと思う。

少なくとも僕は、幼い頃から何一つ十分にやり遂げる事が出来ない性分であり、またその事を何かのせいにしたり、呪ったりして生きてきたが、多くの出来事がその事の無意味さや空しさ、情けなさに気付かせてくれた。その事は自分の人生においても最も重要な財産であると思う。

僕を変えた多くの出来事はそのほとんどが悲しい出来事だが、それが無かったら、僕もあちら側にいてもおかしくは無かったかもしれないのだから。

まずは自分自身の能力の無さを理解する客観性とそれを受け入れる精神を持つ事、全てはそこから犯罪者と表現者の違いは始まるはずだと僕は思う。

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