【勇気の証】

夢に関連した、と言うか、人生全般において自分の前に避けようの無い壁が現れた時、「もう駄目だ!」、「これは自分の分野ではないからしょうがない」と逃げ出したくなる時があります。
そんな時、僕はいつでも「この人生は誰のモノなんだ?」
「この人生は誰が歩むモノなんだ?」という事を自問自答するようにしています。すると、何故か、ドコからか少しだけ勇気が湧いてくるような気がするのです。
その気持ちを後押しとし、僕はいつも、他人からは無謀と言われる一歩を踏み出します。しかし、僕は勝ち目の無い勝負は挑みません。本人にしてみれば全て充分に勝算があっての行動なのです。
何故なら、何も行動を起こさないままであるならば可能性は0%のまま全く動きませんが、少しでも行動を起こす事で0,00001%でも可能性が生じてくるのであれば、それは「無」から「有」を生み出す事であり、神が天地創造を行った事にも近い程の奇跡的な行動だと考えるからです。
考えてみてください。自分自身を勝手にジャンル分けして「これは自分には出来そうに無い」と言い訳をし、行動に移していない人がどれだけ多いか?人は単純化した思想や行動で括られようと本能的に考える生き物なのだそうです。例えば人が「笑っていた」として、それを見た第三者は「笑っている」事のみを認識をするが、その人の感情までは認識しようとはしない。と言うか認識出来ないので認識できる単純な形に変換するのである。その人が喜怒哀楽、どの感情の基で表情を作っていても「笑っている」と単純化した表現で認識されているという事である。例えば、道端で初めて見かけた人が会話の中で「笑っていた」のを見かけたとして「あぁ、あの人、顔では笑ってはいるがきっと対面にいる人に対してよい感情を持っていなくて、近所付き合い等の体裁作りの為に笑顔を作っているのだから、あれは本当は笑っているように見せかけた嫌疑の表情なのだな!」とは一瞬では認識しないはずだ。
「あぁ、あの人笑っているな」と認識する人が大多数であると思う。少し話が逸れてしまったが、要は、人間は理解しがたいモノを単純化して、それまでの人間社会が構築してきた常識に落とし込み、自分で理解したフリをし、その本質からは目を背けようとしてしまう本能があるという事だ。話がトンでも無い方向に行きかけたが、とにかく、その単純化の流れの中から、敢えて逆らうように動き出した「自分自身」という存在はどれだけ奇跡的なマイノリティか想像してみてください・・・もうそれだけで僕たちは奇跡を起こしているのだと思います。という事が言いたかったのです。
そして、その「奇跡」を連続して多く起こせた人間が、自分自身の人生において、自分だけの「成功」という「勇気の証」を手にする事が出来るのだと思います。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック