【議論1】

先日、「人を殺す」という事についてどう考えるか?という質問に対し
て議論する機会があった。
皆さんはどう考えますか?
良かったら意見を聞かせていただきたいです。


【yoshiの主張】
先ず最初に僕は「デカルト」の「コギト・エルゴ・スム」(我思う故に我在る)という言葉が自分の哲学の理念としてあるのですが、簡単に言うと「この世の全ては自分の脳が作りあげた幻想かも知れないと言う仮定の基で、その中で唯一「在る」と確認できるのは「自分の意志」のみだ」と言う考え方です。
ですので、極論ではありますが、「人を殺す」という事に限らず「自分がこうしたいんだ」と確信を持ち、なおかつそれを誰の所為にもしないという責任の基であれば理屈的に言えばには何をしても良いのだと言う事になります。
多分、人を殺したりする事に何かと理由を付けたがるのは、自分自身や周りの人間に共感を得て言い訳をし、許しを請う行為なのだと考えます。
テロや戦争なんてのはその最たるモノで、そこに含まれる「精神が相対的」過ぎて、僕から言わせて貰えば「動機が不純」すぎます。
全く持ってナンセンスですし、意味がありません。
本当に殺したいと考えるならばソコにはもう理由は必要ありません。
純粋な理由で「特に理由はありませんが、あなたを殺したいから殺します」と考える「絶対的な精神」の持ち主には「社会のルール」なんてもはや鼻くそ程度にも考えていないのだと思いますし、ソレこそが真に正しい形の「純粋な感情」であり、それについて「何故?」と考える事自体が既に不毛な事なのだと思います。
ただ、そんな奴が来て「殺します」と言われても、そこまで僕は聖人でも人生を悟ってもいないので、おいそれと殺されるつもりも全くありませんし、その感情を肯定するつもりもありませんが...。
少し話が逸れましたが、上記の考えから、生命を尊いと思うのは人間の「不純物」の現れのような気がします。
また、更に話が逸れますが、この前、僕が夜お風呂場で歯を磨いている時にふと思いついた「鏡」の話をしましょう。鏡とは「自己を知る」モノとしてこの人間社会において機能している物質ですが、それに似た機能を持つモノを自然界で探してみても、強いて言えば水面くらいのモノで、中々見つからないのです。と言うか必要とさえされていないと言うか、少なくとも僕は毎朝鏡の前でクシをといている猫を見たことはありません。で、何が言いたいかと言うと、自然界は元々「自己を知る」事を許される形には作られてはいなかったのです。何か「大きな流れ」のようなモノがその事を決定付けていたにも関わらず、歴史の在る地点で人間はその「大きな流れ」に逆らい「自己を知る」という事を知ってしまった。この事がきっかけで相対性を考える今日の人間社会が存在するのだと僕は考えます。「その大きな流れ」というモノが何か?これは僕もまだ考察中ですので結論は出ていませんが、と言うか、こういう言葉で逃げるのは嫌いなのですが、多分僕たちが一番認識しやすい言葉で「神様」というモノに近いモノであろうと考えています。人間はそれ以外の動物とは違い「自己を知る」という概念を持っている。が、故に相手の気持ちまでも推し量ろうとする相対性が生まれる。誰も好き好んで死にたいとは考えないでしょう(自殺も、行き場が無くなった結果の行動だと僕は考えます)、従って相手の気持ちを理解しようとする人間は「自分は殺されたくないのだから相手も恐らく殺されたくは無いであろうから、お互いにルールを作って安全を確保しよう」と取り決めを行ったのでしょう。これは人間のみが独自に構築してした社会に適合するために必要なルールではありますが、元々、自然界の社会においては「相手を殺してはいけない」なんてルールはありませんし、そんな事を言っていたら自分が死んでしまいます。
「生きるために相手を殺す」という事すらも言い訳になるような「不純物」なので、彼らは恐らくはそんなすらも考えてはいないでしょう。
まぁ、結論として、人間として生きる運命と、純粋な動物として生きる運命。このどちらをも背負ってしまった僕達にとって、人間として生きる事を選び、ルールを重んじて生きる人間もいれば、一個体の動物として本能のままに生きたいと考える人間もいる。結果的にはこの「議題」に「絶対的」な善悪の答えはありませんが、僕なりの願望はあります。それはこの社会において少なくともお互いの領域は尊重しながら生きていきたいという事です。まぁ、それが出来ればとっくに世界は平和なのだと思いますが。
しかし、一方、僕はこの世界に「不純物」という多様性を生み出すルールががあるからこそ、この「人生」というモノはとても深く、興味深いのだとも思います。



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